所有しようと思わないこと
何故かは分かりませんが、子供の頃から、「浮気はいけない!」 みたいな不文律がありました。
「他人のモノは、取ってはダメ!」、
「自分がされて嫌なことは、他人にしてはダメ!」
と同じ理屈のようです。(笑)
今思えば、これは、”コドモ” という実力社会の中で、トラブルを最小限に抑えるための、ノウハウだったのかも知れませんし、あるいは、リアルな社会に出る前のロールプレイだったのかも知れません。
しかし自分の場合、それに反して、「好きな子」 は、学校のクラスの中にも複数人居たりしました。人の良いところが見えると、「好きな人」 でも、それぞれ、見る尺度によって異なるのです。
当時は、身体のラインが、キレイに流れているような、女性が好きでした。
女の子が女性に変わりつつある年代になると、腰からヒップにかけてのラインには、息子は敏感に反応しました。
かと思えば、実にイキイキしていて、目が輝いている子などは、写真をみると全然美人でも何でもないんだけど、すごくキレイに感じた子もいました。
相手が変われば、身体の中で反応する場所も異なるし、脳の中で反応する場所も異なるわけです。
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現代は、そのときの認識で、そのままオトナになっている人が多いように見受けられます。
法律論的に言えば、一夫一婦制の婚姻制度は、貞操義務はあるものの、相手を束縛する権利を与えているわけでも、独占を保障しているわけでもありません。
そもそも、どちらか一方の独占欲を満たすために一夫一婦制があるわけではないのです。
単に、社会を安定にするため。そして、肉体的経済的に弱者となりやすい女性や子供の生活を保障するためなのです。
従って、結婚していない状態においては、複数の異性と付き合っても、何も法的には問題となりません。7人の彼氏がいるとして、曜日毎に交代交代して、結果的に 「七股」 を掛けていたとしても、当事者の感情はともかく、法律的には何も問題ないのです。
法律では、結婚していようとも、他の異性を好きになることを禁止していませんし、不倫行為も、貞操義務違反であって、禁止はされていません。
あくまでも、バレたときに、離婚や慰謝料の請求対象になる場合があるというだけであって、罰金(正確には反則金)の掛かる、自動車などの安全運転義務違反よりも軽いものなのです。
結婚するときは、誰もが勝者。永遠の愛を信じ夢見て結婚しますが、現実は、自分の理想通り、思い通りにはいきません。
結婚は 「恋愛」 のように、頼り頼られる関係ではありません。
民法第752条にもあるように、同居し、互いに協力し扶助する関係にあるのです。
結婚しているからと言って、それが永遠ではないのが、現代です。
結婚でも、恋愛でも、そして不倫愛でも、大切なこと。長続きするコツは、精神的な意味、良い意味で、お互いが自立しているということです。
それは、不足ばかりを数えるのではなく、相手に対する感謝の気持ちを数えるということ。そして、それが自己肯定感に繋がっていくのです。
相手に全てを委ねて良いのは、「ハレの日」 のほんの一瞬。
そのときにこそ、自分の汚いところも、醜いところも、全てをさらけ出して、エゴを超えて一対が一体となり、頭の中がおかしくなってしまうくらいに狂えば良いのです。
人は肉体的にも精神的にも、所有できるものではありません。相手を所有出来ないからこそ、相手を留めておくために、相手が楽しくなるように、相手を気持ち良くしようと努力するわけですし、人の命も恋愛関係も、永遠がないからこそ、「今」 を楽しもうとするわけです。
「所有欲」 は、其れを持っていることで、自分を誇りに感じ、自分が安心しているだけなのです。
裏返して言えば、其れがないと不安なので、「自己肯定感」 が抜け落ちてしまっている状態にあるということです。
過去記事の 「SM と乱暴は違う」 で、俳優の新井浩文の強制性交事件について言及しましたが、その事件に絡めて、精神科医が ”クソ客” の心理を説くこの記事は、なかなか為になります。
「新井浩文被告の「強制性交等罪」は風俗店でも成立する 本番強要をする“クソ客”の心理とは?」
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「このひとは、わたしのモノよ!」
ひとは 「モノ」 ではありません。
旦那や彼氏が、奥さんや彼女の所有物でもなければ、奥さんや彼女も、旦那や彼氏の所有物ではないのです。
同じように、子供も親の所有物ではありません。
子供だって、自我が目覚めたら、自分とは異なる違う人格なのです。
家には家のルールがあるでしょうし、躾けや叱ることも重要です。
しかし、大きくなるに連れ、自分で出来ることは自分でするようにし、自分で判断すべきことは、自分で判断させる必要があります。
親の存在意義は、ひとりでも、危険を回避し、正しく生きて行けるようにすること。
親が子供を支配して、親の価値観の中で子供を生かすことではありません。
自分の腹を痛めた子、自分と血の繋がる子供でさえ、親の思い通りにはいかないわけですから、ましてや、血すら繋がっていない赤の他人が、自分の思い通りにいくはずもありません。
違う人格、違う価値観を持つ相手を、自分の思い通りにするということは、相手の人格や価値観を否定し、強要しているということです。
本人に悪意はなく、「相手に良かれと思ってやった・・・」 みたいなことを、言うひともいます。
しかし、そういう人の多くは、人によって人格も価値観も異なるということを理解していなかったり、意識していなかったりします。
家庭内で DV やモラハラを働く人の場合は、家族とは価値観を共有する場であると思い込んでいたり、家族の中では自分の価値観が一番正しいと思い込んでいたり、家族は家長たる夫の言うことを聞いていれば良いと、事細かく指示したりします。
暴力などで、家族を自分の思い通りに、支配しようとするわけです。
もしかしたら、家族を支配することで、「自己肯定感」 を感じているひともいるかも知れません。
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子供の幼少期に、不必要なまでに自分の価値観を植え付けると、それはその子供が大人になったとき、「インナーマザー」 となって、心の中に葛藤が起きます。
そして、幼少期に抑えられた気持ちは、「インナーチャイルド」 になって心の隅に押し込められます。
これは、多かれ少なかれ、誰にでもあるのかも知れません。
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SM では、外形上は、肉体的に苛め、貪っているだけ、のように見えるかも知れません。
しかし心理的には、被虐性向者いわゆる M の心の中にあるカサブタを見つけ出しては、自分は ”姫” と呼んでいますが、その中に隠れている 「インナーチャイルド」 を救出していたりするのです。
ここで困るのは、「インナーチャイルド」 を解放した途端、自分が変わったように思えて、こちらの言うことも聞かず、「ありがとうございました」 と居なくなってしまう人達。
本当は、「インナーチャイルド」 に対する ”躾け” こそが最も難しいのです。
それを知らずに、ただ異性を性的に従属させるために使っている人もいるかも知れませんが、だからこそ、SM の世界では、主の命令は ”絶対” なのです。
人の心を所有しようと思っても、いつまでたっても満たされることはありませんし、
隣の芝生以上に青い家は、一生手に入りません。
まずは、主の言うことに耳を傾けること。
そして、その命令を忠実にこなすこと。
奴隷が人以下の存在とされているのは、「自分!自分!」 ではなく、まずは、「人の話を聞きなさい!」 という意味でもあるのです。(笑)
支離滅裂になってしまいましたが・・・ (^^;
俺の話を聞け! 5分だけでもいい (笑)