出会いと別れ
若い頃は、「苔(こけ)の一念(いちねん)岩をも通す」 ではないけど、自分が最大限努力すれば、出来ないことはないと思っていました。世の中甘くはありませんので、何かを成し遂(と)げるためには、その位の強い信念は必要です。
しかし、それが全(すべ)てに通用するかというと、そうでもない。どんなに足掻(あが)いても、自分の思うようにならないことが、世の中たくさんあります。
人の生死もそうなら、人との出会いもそう。
どんなに自分が好きな人であっても、相手に自分の思いが通じないことはしょっちゅうだし、人との出会いがあれば、それと同じだけの、別(わか)れもある。
どんなにお互いが愛し合って結婚したとしても、気持ちが離れることもあれば、愛が一転して憎悪に変わることもある。
現実的には、「愛」 はあるけれども、人間は誰しも不完全な存在ですので、そこには 「永遠の愛」 などありません。「愛」 とは与えるもの。見返りも求めるものでもなければ、比較するものでもない。ましてや、「愛」 を欲しがるのは 「愛」 ではなく、「欲」 なのです。
別れの美学
昨今(さっこん) 「ゲス」 と呼ばれる 「不倫」 なんて言葉も、そもそも、SM やってるような 「外道(げどう)」 にとっては、「だから何?」 と逆に質問されかねない、ある意味、何の意味もなさない言葉ですが、どうワルぶっても避けられないのが、「出会い」 と 「別れ」。
人の本質は、やはり、「別れ」 に表われるように思います。
「桜」 ではありませんが、蕾(つぼみ)から 「パッ」 と花が咲いて、そして 「パッ」 と散る。時間は長ければ長いに越したことありませんし、密度も濃ければ濃いに越したことはない。
オンナを喰い散らかすのが 「無粋(ぶすい)」 なら、心が 「いっぱいいっぱい」 になったオンナに対して後ろ髪を引くのは 「野暮(やぼ)」 というもの。そこでオンナを脅(おど)したり、罵(ののし)ったりするなんざ、外道以下です。
自分の未練(みれん)を抑(おさ)えて、放してこそ 「粋(いき)」 と言うもんです。
SM では、奴隷の方からはその隷属(れいぞく)関係を解消できないのが一般的。しかし、これは、主の身近な存在として主に従属している幸福を実感させるのと同時に、気持ちが一時的に不安定になって、不安から逃げようとする女性の退路を断(た)つこと。自身を主に委ねさせるようにすることが本来の隠された目的なわけで、文面通り社会的肉体的に支配して従わせることを目的としているわけではありません。
緊縛はしても、束縛はしないのは当たり前。そして、愛奴の心にガッツリと縄目が残せないようでは、単なる SM の真似事(まねごと)に過ぎません。
SM の難しさ。それはやはり、相手があることの難しさです。距離感は、遠すぎても意味なければ、近すぎても駄目。良い意味での緊張を維持し続けることは、なかなか簡単なことではありません。
どんなにお互い愛し合っていたとしても、心がいっぱいいっぱいに溢(あふ)れてしまい、ガス抜きが出来ずに苦しむ場合もある。
性の欲望が解放され、心も満たされる関係では、愛という名の緊張がどんどん高まります。そんなとき、「割り切り」 というガス抜きが出来ていないと、風船は膨(ふく)らみ続けて、そして最後に頭に不安がよぎった途端(とたん)に、破裂します。
そんな場合は、どれだけ自分に心が残っていても、もう別れて自由にしてあげる、放(はな)してあげる以外に道はありません。
「飼い切れていない」 と言われれば、それまで。SM では、「受け手」 が全てを責め手に委ねる以上、「責任」 は文字通り全て 「責め手」 に帰するわけです。
だからこそ、どれだけ 「受け手」 の方も主に委ねられているかが、重要となってくるわけですが、しかし、それも、元を辿(たど)れば 「主の躾(しつ)け」 に行き着きます(苦笑)。
出会いがあれば、いつか別れも訪れます。どんな出会いも期間が長いか短いかだけの話。
大事なことは、どんなに切なくても、その出会いを統括(とうかつ)して、出会った相手に感謝する気持ち。出会いを感謝の気持ちに昇華(しょうか)するということ。
それが出来る人の通った道には、花が咲き、それを出来ない人の通った道には、屍(しかばね)ばかりが転がります。
人は、今を一生懸命に生きることが大切です。今を大事に出来ない人には、幸せは訪れません。何故なら、今の連続が未来だから。今を楽しめない人は、未来も楽しめません。
そして、その逆に、過ぎ去った 「今の連続」 が過去なのです。なので、今を大事に出来ず、現在をきちんと消化出来ていない人が通った道には、屍ばかりが転がるのです。
きちんと 「挨拶」 のできる愛奴は 「卒業」 なのです。なので恩師として教え子として、今でも心は繋がっています。逆にそれを出来ない奴隷は 「落第」 です。
自分が至らなかった心苦しさは残りますが、野良になって永遠に彷徨(さまよ)い続けるのも、転がり続けるのも人生です。
そして、「別れ」 によって突然 「空き」 が生じるからこそ、次の出会いがある。そこにまるで、空気の流れがあるように、入れ替わるわけです。
大事なことは、人との縁を大事にして、今を大事にすること。自分の利益を追求するのではなくて、相手を尊重するということ。そして、自分が通った道の後には、花が咲くように心掛けるということです。
一期一会を大事にする
一期一会とは、人との縁を大事にして、今を大事に生きるという意味です。
ある意味、縁ある人と自分との掛け合いでもあり、その人との時間を大切にする。
贅(ぜい)を尽くし、持(も)て成(な)すことでもない。自分の誠意を尽くすこと。最近では死語に近くなってきましたが、大事なのは 「真心(まごころ)」 です。
ダラダラの関係を 「一期一会」 などとは呼びませんし、相互に謙虚(けんきょ)な気持ちのない関係にも 「一期一会」 は当てはまりません。
ましてや、真意を測(はか)りかねてたり、話が噛みあっていなかったり、あるいは、自己中心的で打算のある関係などは論外と言えます。
そこには、大事であるがゆえに、相手を尊重し、自分よりも相手を優先する気持ち、そして、良い意味での緊張と喜びがあります。
物事に対する執着を捨てて、自分の執着を乗り越えて、縁ある人との時間を、真摯に純粋に楽しむ。
例え、自分が好意を寄せる女性から、別れ話を切り出されたとしても、いや、そういう場面であるからこそ、「一期一会」 であるならば、一緒に二人で本当に美味しいものを食べるくらいの心の余裕が欲しいものです。
釣った魚に餌をあげないどころか、逃げる魚に餌なんてとんでもないなんて言うのは、野暮。
「違いの分からない」 男や女は、この世に五万といますが、それでも、「一期一会」 であるならば、自分と縁(ゆかり)のあった人とは、一緒に美味しいものを食べ、お酒を酌(く)み交(か)わしたくなるものです。
とある若い独身の男性に別れ話を伝えるために、別れ話を切り出そうとしていた女性が選んだお店は、「あつた蓬莱軒」 の陣屋本店。明治6年創業の 「ひつまぶし」 発祥とも言われている老舗(しにせ)の名店です。
涙で、味は解らないし、気分も晴れないでしょう。女性が美味しいと薦める 「小鉢」 も断ってしまう始末。しかし、その店を選んだのは、彼女が美味しいものを食べたかったからではありません。
わざわざ遠くまで来てくれて、せめて美味しいものでも味わって帰って貰いたいという彼女の誠意であり、ホンモノ(ホルモンではない)の味が分かる男になって貰いたい、そして、そういう格式のある店でも映えるような 「粋(いき)な男」 になって貰いたい、という彼女のメッセージが隠されていたわけです。
いつか、もっと立派になって、何かの縁でまた 「ひつまぶし」 に出会ったときには、きっとそのときのことは、甘酸っぱい思い出になっていることでしょう。
今現在 「別れ」 に直面し、心に痛みを感じている人達に、この話を捧げます。