2ntブログ
2017/05/15

出会いと別れ

若い頃は、「苔(こけ)の一念(いちねん)岩をも通す」 ではないけど、自分が最大限努力すれば、出来ないことはないと思っていました。世の中甘くはありませんので、何かを成し遂(と)げるためには、その位の強い信念は必要です。

 

しかし、それが全(すべ)てに通用するかというと、そうでもない。どんなに足掻(あが)いても、自分の思うようにならないことが、世の中たくさんあります。

 

人の生死もそうなら、人との出会いもそう。

 

どんなに自分が好きな人であっても、相手に自分の思いが通じないことはしょっちゅうだし、人との出会いがあれば、それと同じだけの、別(わか)れもある。

どんなにお互いが愛し合って結婚したとしても、気持ちが離れることもあれば、愛が一転して憎悪に変わることもある。


現実的には、「愛」 はあるけれども、人間は誰しも不完全な存在ですので、そこには 「永遠の愛」 などありません。「愛」 とは与えるもの。見返りも求めるものでもなければ、比較するものでもない。ましてや、「愛」 を欲しがるのは 「愛」 ではなく、「欲」 なのです。

 

別れの美学

 

昨今(さっこん) 「ゲス」 と呼ばれる 「不倫」 なんて言葉も、そもそも、SM やってるような 「外道(げどう)」 にとっては、「だから何?」 と逆に質問されかねない、ある意味、何の意味もなさない言葉ですが、どうワルぶっても避けられないのが、「出会い」 と 「別れ」。

 

人の本質は、やはり、「別れ」 に表われるように思います。

 

「桜」 ではありませんが、蕾(つぼみ)から 「パッ」 と花が咲いて、そして 「パッ」 と散る。時間は長ければ長いに越したことありませんし、密度も濃ければ濃いに越したことはない。

オンナを喰い散らかすのが 「無粋(ぶすい)」 なら、心が 「いっぱいいっぱい」 になったオンナに対して後ろ髪を引くのは 「野暮(やぼ)」 というもの。そこでオンナを脅(おど)したり、罵(ののし)ったりするなんざ、外道以下です。

自分の未練(みれん)を抑(おさ)えて、放してこそ 「粋(いき)」 と言うもんです。

 

SM では、奴隷の方からはその隷属(れいぞく)関係を解消できないのが一般的。しかし、これは、主の身近な存在として主に従属している幸福を実感させるのと同時に、気持ちが一時的に不安定になって、不安から逃げようとする女性の退路を断(た)つこと。自身を主に委ねさせるようにすることが本来の隠された目的なわけで、文面通り社会的肉体的に支配して従わせることを目的としているわけではありません。

緊縛はしても、束縛はしないのは当たり前。そして、愛奴の心にガッツリと縄目が残せないようでは、単なる SM の真似事(まねごと)に過ぎません。

 

SM の難しさ。それはやはり、相手があることの難しさです。距離感は、遠すぎても意味なければ、近すぎても駄目。良い意味での緊張を維持し続けることは、なかなか簡単なことではありません。

 

どんなにお互い愛し合っていたとしても、心がいっぱいいっぱいに溢(あふ)れてしまい、ガス抜きが出来ずに苦しむ場合もある。

性の欲望が解放され、心も満たされる関係では、愛という名の緊張がどんどん高まります。そんなとき、「割り切り」 というガス抜きが出来ていないと、風船は膨(ふく)らみ続けて、そして最後に頭に不安がよぎった途端(とたん)に、破裂します。

そんな場合は、どれだけ自分に心が残っていても、もう別れて自由にしてあげる、放(はな)してあげる以外に道はありません。

「飼い切れていない」 と言われれば、それまで。SM では、「受け手」 が全てを責め手に委ねる以上、「責任」 は文字通り全て 「責め手」 に帰するわけです。

だからこそ、どれだけ 「受け手」 の方も主に委ねられているかが、重要となってくるわけですが、しかし、それも、元を辿(たど)れば 「主の躾(しつ)け」 に行き着きます(苦笑)。

 

出会いがあれば、いつか別れも訪れます。どんな出会いも期間が長いか短いかだけの話。

 

大事なことは、どんなに切なくても、その出会いを統括(とうかつ)して、出会った相手に感謝する気持ち。出会いを感謝の気持ちに昇華(しょうか)するということ。

それが出来る人の通った道には、花が咲き、それを出来ない人の通った道には、屍(しかばね)ばかりが転がります。

人は、今を一生懸命に生きることが大切です。今を大事に出来ない人には、幸せは訪れません。何故なら、今の連続が未来だから。今を楽しめない人は、未来も楽しめません。

そして、その逆に、過ぎ去った 「今の連続」 が過去なのです。なので、今を大事に出来ず、現在をきちんと消化出来ていない人が通った道には、屍ばかりが転がるのです。
 

きちんと 「挨拶」 のできる愛奴は 「卒業」 なのです。なので恩師として教え子として、今でも心は繋がっています。逆にそれを出来ない奴隷は 「落第」 です。

自分が至らなかった心苦しさは残りますが、野良になって永遠に彷徨(さまよ)い続けるのも、転がり続けるのも人生です。

 

そして、「別れ」 によって突然 「空き」 が生じるからこそ、次の出会いがある。そこにまるで、空気の流れがあるように、入れ替わるわけです。

 

大事なことは、人との縁を大事にして、今を大事にすること。自分の利益を追求するのではなくて、相手を尊重するということ。そして、自分が通った道の後には、花が咲くように心掛けるということです。

 

一期一会を大事にする

 

一期一会とは、人との縁を大事にして、今を大事に生きるという意味です。

ある意味、縁ある人と自分との掛け合いでもあり、その人との時間を大切にする。

贅(ぜい)を尽くし、持(も)て成(な)すことでもない。自分の誠意を尽くすこと。最近では死語に近くなってきましたが、大事なのは 「真心(まごころ)」 です。

ダラダラの関係を 「一期一会」 などとは呼びませんし、相互に謙虚(けんきょ)な気持ちのない関係にも 「一期一会」 は当てはまりません。
ましてや、真意を測(はか)りかねてたり、話が噛みあっていなかったり、あるいは、自己中心的で打算のある関係などは論外と言えます。
そこには、大事であるがゆえに、相手を尊重し、自分よりも相手を優先する気持ち、そして、良い意味での緊張と喜びがあります。

 

物事に対する執着を捨てて、自分の執着を乗り越えて、縁ある人との時間を、真摯に純粋に楽しむ。

 

例え、自分が好意を寄せる女性から、別れ話を切り出されたとしても、いや、そういう場面であるからこそ、「一期一会」 であるならば、一緒に二人で本当に美味しいものを食べるくらいの心の余裕が欲しいものです。

釣った魚に餌をあげないどころか、逃げる魚に餌なんてとんでもないなんて言うのは、野暮。

「違いの分からない」 男や女は、この世に五万といますが、それでも、「一期一会」 であるならば、自分と縁(ゆかり)のあった人とは、一緒に美味しいものを食べ、お酒を酌(く)み交(か)わしたくなるものです。

 

とある若い独身の男性に別れ話を伝えるために、別れ話を切り出そうとしていた女性が選んだお店は、「あつた蓬莱軒」 の陣屋本店。明治6年創業の 「ひつまぶし」 発祥とも言われている老舗(しにせ)の名店です。

涙で、味は解らないし、気分も晴れないでしょう。女性が美味しいと薦める 「小鉢」 も断ってしまう始末。しかし、その店を選んだのは、彼女が美味しいものを食べたかったからではありません。

わざわざ遠くまで来てくれて、せめて美味しいものでも味わって帰って貰いたいという彼女の誠意であり、ホンモノ(ホルモンではない)の味が分かる男になって貰いたい、そして、そういう格式のある店でも映えるような 「粋(いき)な男」 になって貰いたい、という彼女のメッセージが隠されていたわけです。

 

いつか、もっと立派になって、何かの縁でまた 「ひつまぶし」 に出会ったときには、きっとそのときのことは、甘酸っぱい思い出になっていることでしょう。

今現在 「別れ」 に直面し、心に痛みを感じている人達に、この話を捧げます。

2017/05/02

「男の味見」 のススメ

人の 「好(この)み」 はさまざまです。

甘いもの好きから、オヤジが好むような珍味(ちんみ)好きまで、さまざま。

ある意味、自分の価値観の中核とも言えるものです。

なので、最終的には、世間や他人の基準に従うのではなく、自分の基準で自分が判断すべきもの。


食べものは、まだ予算さえ合えば、食べることが出来ますが、しかし、予算にも当然限界はあります。

「ホンモノ」 と出会い、本当に美味しいものにありつくためには、「好き嫌い」 は無いに越したことはありませんし、経験を積んで 「自分の舌」 を鍛(きた)えるのも大事。

下手なファッション誌に出ているレストランなんかを食べ歩いたところで、踊(おど)らされるのが関の山(せきのやま)。

しかし、自分の足でただ闇雲(やみくも)に歩いてみたところで、美味い店に当たるよりも、不味いものに当たる確率の方が断然高い。横浜の中華街でも、そうです。(笑)

それならば、舌の肥えてる自分が信頼を寄せる人にでも紹介して貰ったほうが、まだマシというもの。

 

恋人選びや、結婚相手選びも同じです。

いやいや、恋人や結婚の相方(あいかた)探しとなると、そこにはどうしてもお互いの相性が出てきますので、それ以上に難しい。


心の相性は、付き合うことである程度理解できます。
付き合うことで、あるいは、一緒に住むことで態度が変わる人もいますが、それは、付き合うか、一緒に住まない限りは解りません。
別れ際(わかれぎわ)で、キレイな別れ方が出来ず、最後に脅(おど)し文句や捨て台詞(すてぜりふ)を残さないと気の済まないような、幼稚(ようち)な輩も居たりしますが、これもなかなか最初から見極めるのは難しかったりします。

時間も食うし、お金も掛かるので、最後で判断すればいいんです。

 

いろいろな人を認識する


要は、「いろいろな人」 がいるということ。

 

まずは、自分の憧(あこが)れではなく、現実の世界で実際に 「いろいろな人」 が存在することを認識し、味わってみるのが大事。
若いときには、好き嫌いや選り好み(よりごのみ)をせず、不味い料理も美味しい料理も経験して、自分の舌を鍛えるということ。好き嫌いがある人は、その自分の先入観を否定してみるのも悪くないのです。イモトに蛇を食わせるように、その人が 「絶対に無理」 なものを喰えと言ってるわけではありません。先入観を捨てて 「喰わず嫌い」 や 「選り好み」 を直して、「食べてみなさい」 ということです。

20代前半までは、いかに練習問題を数多く解くかに掛かっているのです。

 

女性は、相手に対する 「好き」 という好意に始まり、それが 「ドキドキ」 して、ときめくようになり、セックスに至ります。最終的にセックスの点数は、心の満足度と身体の満足度によって決まります。女性の本質は生物的にはその通りです。

しかし、結婚には、生活を始め、さまざまな要因が関係しますので、単純にセックスが良いからと相手を選択できるものではありません。

 

しかしセックスは、味見をしてみないと解らないものだけに、選ぶ際には、「自分の味覚」 がとても重要になってくるのです。
特に若い女性が知っておくべきこと。それは10代や20代の女性も性欲はあるでしょう。しかし、女性の性欲は、30代40代と年齢を増すに連れて、より強く激しくなっていくということです。20代や結婚当初は、セックスに全く興味がなかったという淡白な女性でさえ、四十路(よそじ)を迎えるにあたって、強い性的な衝動を覚えたりもするのです。
選択する時点では、外見は熟れていても、オンナとしてはまだまだ熟れていないんです。

 

20代前半までは、練習問題を解く時期


20代半(なか)ばまでは、自分を鍛える時期。

自分の 「好き嫌い」 を克服し、「選り好み」 をやめ、まずは喰ってみる。味見です。そして、自分の味覚を鍛えて、まずは、「不味(まず)いもの」 と 「美味しいもの」 を知り、区別できるようになること。そして、「美味しいもの」 は、「そこそこ美味しいもの」 と、「めっちゃ美味しいもの」 を知り、区別できるようになること。
これから梅雨(つゆ)にかけての、東京湾羽田沖の穴子(あなご)。口の中で溶ける 「煮穴子の炙(あぶ)り」 も、ふぐの白子の上品でとろける味も、いつでも食べれるものではありませんが、知らないよりかは知ってる方が断然人生豊かになると言うものです。

 

紙一枚で分かることで、人を選別しない


言ってしまえば、頭の出来や経済力などは給与証明や出身大学あるいは勤務先など紙一枚で解りますが、頭の回転や人間性は、話してみればある程度解るものの、しかし、きちんとその人の本質を見抜くためには、口先だけで甘言(かんげん)を吐く、口八丁手八丁や自分語りの旨(うま)い呪術師を見破るだけの経験が必要になります。
目先の数字は、最後に見れば良いのです。最初から、目先の数字ばかりを見て、選別している人は、自分の機会を減らしてるわけです。大企業並みの求人倍率であれば、数字による足切りも仕方ないでしょう。しかし、中小零細がそれをやったら、ブラックよろしく嘘の宣伝でもしない限りは、来る人はいません。(苦笑)

 

ホンモノの味を理解して、味覚を鍛える


要は、大事なのは、自分の現実での立ち位置をしっかりと認識することと、相手の表から見えない部分を観(み)る力なのです。

若いときは、自分のキャパシティ(器の容量)を出来るだけ広げると共に、ホンモノを見抜く力を付けるための努力を惜しまないようにしなさい、ということ。
キャパシティが小さければ、それだけチャンス(機会)が減りますし、ホンモノを見抜く力が弱ければ、それだけ自分の時間を浪費します。結果として、なかなかホンモノには出会えません。

 

誰があなたの見方かを認識する


そして、美味しいものを教えてくれた人には、もっと美味しいものを教えてもらいなさいということ。
背伸びをして自分を飾ろうとする人は、気取ってるだけで、あなたに本当に美味しいものを食べさせようとは思っていません。逆に、あなたに好意を寄せる人は、下心の有無を別にすれば、あなたにほんとうに美味しいものを味わわせて、喜んで貰おうと思っています。

 

下積みして磨く


心の相性も大事ですし、身体の相性も大事。
そして、自分の心も磨き、自分の身体も磨く。
自分の心を磨くというのは、現実に思いっきりぶつかって、いっぱい涙を流して、現実を理解するのと同時に、自分の心の角を取ることだし、自分の身体を磨くのは、身体のお手入れや適度なダイエットは否定しませんが、自分の感度や味覚を高めなさいということです。
きちんと下仕事をした上での料理と、全く下仕事のない料理では、料理人が言うのもなんですが、お味は全く異なります。(笑)

 

後半戦


逆に、20代も後半戦に突入すると、女性も意識してるのか無意識なのか。徐々にではありますが、成熟度が増すにつれて、結婚に対する期待度も高まってきます。なので、それが相手に対して無言のプレッシャーを与える場合もあるわけです。

こういう場合、責任意識の強い男は、「ババ抜き」 でババを掴(つか)まされるのを嫌い避けますし、逆に無責任男や自己中男は、「そんなの関係ねーっ」 とばかりに突き進みます。(笑)

自分の季節の移り変わりを認識するのもとても大事。

この年代に必要になってくることは、男を見る目と、相手にプレッシャーを与えることなく、相手の休息地となり得るか、なのです。

 

女性の論理だけで、突進していっても玉砕(ぎょくさい)するだけです。

竹槍(たけやり)片手に精神論で 「心頭滅却(しんとうめっきゃく)」 して突撃しても、機関銃には敵(かな)いません。

大事なことは、女は男を、男は女を理解し、女は男を見る目を養い、男は女を見る目を養う。

そして、心も身体も響き合うことが重要なのです。

 

親心・オヤジゴコロ・もーれつア太郎のココロのボスであるのココロ

 

頭でいくら考えても、行動に移せないのは、理屈では分かっても、身体で理解していないから。

 

心に傷を抱(かか)えており、自暴自棄(じぼうじき)を繰り返す子には、「自分を大切にしなさい」 と言いますが、箱入り娘でもないのに、箱から出れない子には、「さっさと飛び降りなさい」 とお尻を叩きたくなります。(苦笑)

 

20代までは 「箱入り娘」 で、娘に 「悪い虫」 が付かないようにと、用心していた親も、30代も半ばを過ぎると次第に、どんな 「虫」 でもいいから、付いて欲しいと願うようになります。

まあ、それからでも、決して遅いとは申しません。

遅咲きの花であれば、遅咲きの花の春を謳歌(おうか)すれば良いのです。

大事なのは、いつまで待っても、王子様は現れないということ。

実際は現れていても、目が悪いので、通りすがりの人が王子様であることに、気が付かないのです。

 

結婚前にとにかくハチャメチャに遊びまくった感のある人達は、基本、結婚しても、結束力は硬いです。ある意味、女性は男性に、男性は女性に対する諦(あきら)めの気持ちもあるし、それ以上に、美味い料理に当たるよりも、不味い料理に当たる確率を、身体で覚えているのです。そして何よりも、自分の相方が 「ベスト」 ではないものの、上位にあることも身を以(も)って実感している。

 

料理も味見は、とても大切です。

頭ではなく、自分の舌でひとつひとつを確認するのです。

その基本となる 「味」 を覚えるためにも、「見てくれ」 に捉(とら)われず、男を 「味見」 することをお勧めします。(笑)

 

「分かるかな? まあ、分からないだろうな~(笑)」

2017/04/29

男心と女心(1) 男の「好き」と女の「好き」の違い

そもそも、このブログは、若者、特に若い男性の参考になればと思って書き始めました。
しかし、寄せられるメッセージを読むと 「おんなゴコロって、そうよねっ」 みたいな、女性からの共感ベースの応援メッセージ。
それは、それでとても有り難いのですが、しかし、自分は女性のスタンスを100%支持しているわけではありません。

大事なことは、男女の歩み寄り。

女性は男性の特徴を理解し、男性は女性の特徴を理解し、接点を出来るだけ広く確保しなさいということ。

 

自分がガキの頃の性教育は、こんな感じでした。

まずは、男女の肉体的な変化。子供のときは 「付属物」 を除いて、男女共そんなに大きな違いはない。しかし、それが思春期(第二次性徴期)を迎える頃になると、肉体的には、男はゴツゴツと男らしく、女はまるまると女らしくなるみたいな、外形的な変化が始まり、そして、心も男は男らしく、女は女らしくなるみたいな 「おまけ」 がついて終わり。

続いて、子供ができるに至るまでの物理的肉体的な性行為の話。最後は、避妊(ひにん)や病気のお話です。

 

確かに子供の素朴(そぼく)な疑問には答えているかもしれない。

 

しかし、決定的に 「心の話」 が欠落しているのです。

 

第二次性徴によって、「ホルモン分泌」 が変化し、その結果起こる 「心」 の変化は、学校教育では教えてくれないのです。なので異性の口説き方もアプローチの仕方も、習っていない。

それなら、家で教えてくれるかというと、教えてもくれない。

まあ、性の問題は、極めて個人的な問題なので、「教えろ!」 と言われたとしても、パターンで教えて済むもんでもなければ、その通りに行くものでもありません。

 

「心の話」 で重要なことは、男女は 「心も身体も全く違う存在」 同士であるということ。しかし、違いばかりを強調していては、乖離(かいり)するばかりで、そこに融和は生まれません。

LGBT の話を加味するともっと複雑になるので、あくまでも一般論で説明しています。

 

前置きが長くなりましたが、さっそく第一話。

 

男の 「好き」 と、女の 「好き」 の違い

 

例えば、「男は誰とでも寝れるけど、女は好きな人としか寝れない」 みたいな言葉があります。これは一見正しくもあるのですが、正しくもないのです。男女の行動だけを見ているだけなら、正しく見えます。

しかし、細かく見ていくと、男は寝ようとしている時点で既にスイッチ入ってる状態なわけですが、一方の女性はと言うと、単にスイッチの掛かりが遅いだけの話。そこで 「好き」 という感情が重要となってくるわけですが、女性の 「好き」 という感情は男の 「好き」 と比べると、実に幅が広い。

 

男性の 「好き」 は、恋愛表現であるのに対して、女性の 「好き」 は、単に 「好意」 をもっているということ。そこには、尊敬や憧れ(あこがれ)の感情も含まれるのです。

なので 「友達として好き」 みたいな表現になるわけです。

 

では、女性が寝る基準は何か?

極端に言えば、「ドキドキ」 があるかどうか。男であれば、それは 「勃つか勃たないか」 の次元の話なのです。(笑)

なので、女性の言葉で言うならば、男は勃ってる時点で既に 「好き」 なのです。(笑)

 

要は、友達であれ憧れであれ尊敬であれ、「好き!好き!」 とさえずり、その気になって、近付いてきた男性に自分が 「ドキドキ」 するか、あるいは、ときめかせてくれるか。そこが、女性の合格基準なわけです。
そこの違いを理解できるようになると、何故、「女性が男性のリードを必要としているのか」 というところも理解できると思います。

 

結局のところ、男も女も、その気にならないと寝れないんです。

 

これは、動物として人間を見た場合の、基本的な交尾のパターンに過ぎません。

しかし、女性の 「好き」 は、必ずしも男性の 「好き」 と感覚的に一致しない理由や、何故、女性が男性に対して受身であり、男性のリードを期待するのか。あるいは、好きな素振(そぶ)りをするのに、何故最後の行為にまでたどり着けないのか。

そういったものが、動物としての 「人の本質」 を理解すれば、全て理解できるのです。


もし、目から鱗(うろこ)だと思った方は、ポチッとしてくれると助かります。(笑)

2017/04/22

出会いと縁

男女の仲だけでなく、同性同士もそう。縁(えん)とは、不思議なもの。

縁には、縁を繋(つな)げる役割の人達 「コネクタ」 と、縁によって繋がる 「当人」 になる人達 「ターミナル」 になる人達がいます。

 

若い頃は、「自分が利用されている」 と勘違いしていました。

 

しかし、自分も稀(まれ)に、繋がる側である 「ターミナル」 を経験したりすると、やはり、繋げる役割である 「コネクタ」 の存在の重要さを、意識せざるを得ません。

 

そうやって見えてくる 「目に見えない人間像」。

 

「良縁」 を単なる 「グッドラック(幸運)」 だと思って、良縁を繋いでくれた 「コネクタ」 の存在をいい加減に扱う人、「邪険(じゃけん)に扱う人」 は、良い結果に恵まれません。

 

今、自分が 「損しているか」 あるいは 「徳しているか」。あるいは今後、その人との関係で、自分が 「損するか」 あるいは 「徳するか」 で 「人間関係」 を測(はか)るのではないと言うこと。

人間関係は、「今のうちに、この人に恩(おん)を着せて、後でいろいろ返して貰おう」 みたいな打算でなりたっているものではないということ。

 

「一期一会(いちごいちえ)」 とは、純粋にその人そしてその時間を自ら楽しみ、そして、その人との時間の共有に感謝し、共感することです。その時間とその人を尊重するということ。

 

自分の体調が悪くても、そのときのベストを尽くすのです。

「自己ベストを出せ!」 と言っているわけではなく、「その人」 と 「その時」 を最大限楽しみなさいということ。

 

あくまでも、「奉仕」 する側、場を仕切る側である 「茶道の心得」 なのです。

 

画一的・機械的な 「マニュアルベース」 のサービスではありません。

 

SM と一緒なのです。

 

人と人との関係は、その組み合わせ毎(ごと)に異なるのです。

 

人の組み合わせが異なれば、干渉しあう色も違う。干渉しあうことによって生まれる 「和音」 も 「不協和音」 もそれぞれ異なるのです。

 

桜の花のように、パッと咲いて、パッと散る関係もあります。しかし、その時間は短くても、人の心、人の記憶にずっと残る 「開花」 もあるんです。

 

花見で、大騒ぎをするのは、悪くありません。

みんなで楽しく騒いで、いいんです。

そして、楽しさをお隣さんにも分けてあげればいい。
食べ物をシェアし、飲み物を注ぎあい、そして、喜びのシェアを伝播させること。
でも、強制はいけません。相手の受け入れ具合をきちんと測りながら・・・です。

「袖(そで)摺(す)り合うも多生(たしょう)の縁」

袖を摺り合う・・・という意味は、それだけ物理的に近くに居たということですが、多生の縁の 「多生」 は、仏教用語で輪廻(りんね)を表す言葉であって、「多少の縁」 = 取るに足らない縁 という意味ではありません。

ましてや、ネットなどの情報科学の発達によって、今や、物理的に離れていても、袖が触れ合う世界です。

縁には、良縁もあれば、悪縁もあります。
しかし、絶対的な良縁もなければ、絶対的な悪縁もない。
縁を大事にする人には、良縁が集まり、縁を利用する人には、悪縁が集まる。

見える人には、見えて、見えない人には全く見えないのが、「縁」 です。

あなたは、「縁」 を大事にしていますか?

2016/11/25

踊るセックス - キゾンバ(3) :ベッドの上でのキゾンバ

さて、随分とブログを放置してしまいました。

その間にも、某女性読者は 「スタジオ」 に通い、踊り始めています。

 

「ちょびも、追いでよ。習いなよ~♪」

 

習いたいのは山々ですが、まずは習うよりは感じたい。

世の中全て 「教えて貰わないと出来ない」 ものばかりではありません。まずは見よう見真似でやってみるのも悪いことではありません。

やってみて 「上手くなりたい!」 と思ってから習っても、遅くはありません。

「キゾンバ」 も、まずは習うより、自分の身体で音楽と踊りを感じたい。

 

***

 

そんなオヤジは、ただいま 「キゾンバ」 の踊りをベッドの上で練習中です。(笑)

 

ちなみに 「音楽」 はありません。リズムの基本は、自分が心地好くなるテンポとスピード。

時には 「キゾンバ」 でたまにある 「プロモーションビデオ」 ではありませんが、奴隷ちゃんに目隠しをして、思考を放棄させ、ただ、自分の声と手によるリードに従うことを求めます。

つぶやく声もそうなら、奴隷ちゃんの頭や乳房、また、ある時は腰やお尻もコントロールの対象です。

 

奴隷ちゃんには、二人の交接部分…つまり挿入部分に神経を集中させます(笑)

 

そして、手や声でリードして、出したり入れたりの動作をゆっくりと行わせる。最初は先の部分だけ。女性は、何も考える必要はありません。ただリードに合わせて付いて来るだけ。

一番太い 「雁(かり)」 の部分が、その大きさを主張するように、ゆっくりと出たり入ったりする感覚をまず味わわせます。そして、たまに静止させて 「焦(じ)らし」 を入れる。この間、女性の神経は全てアソコに集中しています。

 

しかし、全神経をアソコに集中させつつも、一度(ひとたび)身体の何処(どこ)かに手が触れれば、 「リード」 を受け損なわないようにと、常に全身の触感を緊張させます。

なので、腰に手を触れれば、腰に神経の集中が移る。そして、その緊張は、愛撫か指示かが分かるまで続きます。指示なら、またその指示に従って身体を動かそうとする。しかし愛撫だとそうはいきません。

背筋を 「つーっ」 と触れるか触れないかの感覚で撫(な)であげるたりすると、リードかと思って神経を研ぎ澄まし、緊張していた女性の身体は不意(ふい)をつかれ、その快感を全て受け取ってしまうのです。

自分が意識出来ていない刺激に放浪される感覚は、目隠しと同等かもしくはそれ以上です。

 

一定のテンポで動かしていて、次第に気持ちが高ぶってくると、女性はもっと気持ち良くなりたくなり、気が逸(はや)って自分で動こうとします。焦らされれば、焦らされたで、もどかしくなり、自分で奥の方にまで入れようとする。

理性が活動を停止し、次第に貪欲な女性の我(が)や性(さが)といったものが顔を出してきて、暴走を始めそうになると、思いっきりお尻を 「ペシンっ」。

 

「S たる主に奉仕しているのにもかかわらず、自分が気持ち良くなってどうするの?」

 

オーケストラと一緒。きちんと指揮者を見ていない奏者には、お仕置きです(笑)

 

手の平(ひら)では、やはり、「キゾンバ」 よろしく腰使いを指示します。身体の上下動は手の平全体でリードしますが、腰を入れるときは、腰に当てた手の平の小指側にローリングするようにして自分の方に引き寄せます。そして、小指側側面で押さえるのは、腰を入れるサインになります。

 

S の男性からすれば、自分の思うがままに、女性を操(あやつ)る快感が堪(たま)りません。そもそも、自分が気持ち良くなるように女性をリードしているわけですから、気持ち良くないわけがありません。(笑)

女性は、もう完全に ”男が気持ち良くなるため” の 「道具」 です。

本来この表現は、女性が最も忌(い)み嫌う言葉。しかし、愛し合う男女においては、「我(われ)を忘れて相手に尽くしたい!」 というのが女心です。

 

M の女性からすれば、自分のお気に入りの男性に支配され、自分を相手に完全に委(ゆだ)ねられてる時点で、もう理性は眠り、思考は停止しています。

 

主に奉仕している自分。

そして、男性に好きなように使われている自分。

 

それを思っただけで、身体の奥底から熱いものが込み上げて来て止らない。高まりが抑えられない。

自分がどんどん気持ち良くなって、自分で腰を勝手に振り出すと叱(しか)られるし、イキそうになっても、主から 「イク許可」 が貰えなければ、勝手にイってはいけない。しかし、主の命令には忠実でなければいけない。

 

この状況下で、女性は例えるなら 「圧力鍋」 状態に追い込まれていきます。もう 「シュルシュル」 と音を立てて、ガス抜き用の分銅(ふんどう)が廻っている状態。

ここまで来たら、あとは呼吸のあうタイミングを見計らって、ガッツリとイかせる。

ガス抜き用の分銅を外して、ガスを抜くのと同じ。女性は自分に溜まったストレスを一挙に放出して、オーガズムを迎えます。

 

***

 

旧約聖書には、『神は、アダムの肋骨を取り出し、肋骨からイブを作った』 と、あります。女性の理性が吹き飛び、男性の理性のみが支配するこの時間こそが、二人が一つになる 「聖なる時間」。

「羞恥心」 が芽生えたのも、そもそもは、神が採って食べてはいけないという 「禁断の木の実」 を食べたから。だからこそ、その 「羞恥心」 を乗り越えて始めて、本来約束されていたはずの 「エデンの園」 に入れるわけです。(笑)

 

***

 

「キゾンバ」 の踊りは、さすがに人前ですので、実際にここまで恍惚となることはないでしょうし、有り得ません。しかし、踊りを見ている人達に対して、そのイメージを沸かせてナンボ。見ている者を恍惚としてこその 「キゾンバ」 でしょう。

 

やはり、採点者に対するアピール視線が抜けきれていない、今の日本の 「キゾンバ」 は、普及への尽力は立派であると思いますが、素人の目ながらにも、柔道で勝ってガッツポーズを取る外国人選手さながらに見えてしまうのは、自分だけでしょうか?

 

柔道における 「礼」 は、柔道に限らず日本の武道のスピリット。「葉隠(はがくれ)」 ではありませんが、「生に対する固執」 あるいは 「個の欲や情」 といったものを一切かなぐり捨てて、「無心」 で勝負に臨(のぞ)む 「武士道精神」 の表れでもあります。

それと同じで、ラテンの場合は、「愛とセックスと情熱」 がスピリット。特にストリートダンスに近い 「キゾンバ」 の場合、踊り自体は、形に嵌(はま)らない柔軟さと自由さがあるだけに、その精神性がとても重要に思えてなりません。

 

 

日本のキゾンバ

 

 

 

インドのキゾンバ

 

 

ドバイのキゾンバ

 

 

本場のキゾンバ