2ntブログ
2019/03/25

価値観を広げるということ

価値観は、人それぞれ異なります。

その人の好みもあるでしょうし、感じ方の違いや考え方の違いもあるでしょう。

それは、その人の自由です。

 

どうしても、その価値観が受け付けられないのであれば、一緒にいることは困難でしょう。

好きな人や尊敬する人からは、その価値観をも学びます。

だからと言って、自分の好きな人や尊敬する人が、自分と全く同じ価値観を持っているわけではありませんし、その価値観が必ずしも完璧というものでもありません。

 

受け容れるのも、受け容れないのも、その人の自由。

 

得てして、器が大きい人 は、そういうものに囚われずに人を見ていて、器の小さな人が、自分の好き嫌いに囚われているに過ぎません。

しかし、人の器も、食器と同じです。大きければ大きいほど良いと言うわけでもありません。

その人その人に与えられたものなわけですから、大きい小さいにこだわる必要はありません。

 

トマトが嫌いなら、無理に食べろとは言いません。

しかし、喰わず嫌いだったり、昔食べたときの嫌な記憶で 「トマト嫌い」 になっている場合も少なくありません。

しかし、食材の場合は、「何が嫌か」 を明らかにしていって、トマト嫌いな人でも、トマトが食べれるようになる調理法が、あったりするのです。

実際に、何人何十人もの 「レバー嫌い」 の人にレバーを食べさせ、「ネギ嫌い」 の人にネギを食べさせてきた経験があります。(笑) 

 

自分の価値観に閉じこもるのは、頑なに 「自分の好き嫌い」 に振り回されているのと一緒です。

自分は、他人に自分の価値観を押し付けるつもりは、毛頭ありません。

受け容れられるなら、受け容れれば良いのです。

 

そして、「何かチャレンジしたい!」 と思っている人には、支援の手を差し出します。

 

***

 

恰好良かろうと恰好悪かろうと、そんなことは自分にとっては価値のあることではありません。

そもそも、五十路を過ぎた 「多頭飼い」 のエロオヤジですから、薄汚くて当たり前。

恰好良く見せて女性を口説いているわけでもありませんし、そんな見栄えで女性を惹いているようでは、その辺のナンパオヤジと同じになってしまいます。(苦笑)

 

ひとりの女性を受け留めるだけでも、泥だらけになります。

泥で汚れることを気にしていては、女性を受け留めることなんか、出来やしません。

どうしても、服が汚れるのが気になってしまう人は、何処か遠くから眺めていれば良いのです。

 

その人の価値観を受け容れられないのであれば、近づかなければ良いだけですし、どうしても顔を合わせる必要があるのであれば、其処は見ないようにすれば良いだけです。

学歴のない人とは、話をするのも嫌いな人なら、学歴の高い人とだけお付き合いすれば良いだけの話。

 

   「学歴や収入や職業などで人を判断するのは、損な人だな・・・」

 

とは思いますし、そういう人とは、自分から仲良くなりたいとは思いませんが、損するにせよ得するにせよ、その人の自由なのです。

 

自分が誰とお付き合いあいしようと、自分の自由です。

 

自分は、ちょうど新井浩文とは対極の存在なので、風/俗嬢に対しても全く偏見はありませんし、まあ、昔の話ではありますが、ソ/ープのお姉ちゃんから、忘年会に誘われちゃったりするタイプです。w

 

しかし、だからと言って、他人に其れを強要しようとは思いませんし、それとはまた異なる価値観があるからと言って、批評はしません。

 

***

 

生き甲斐や人生の価値といった、「人生観」 も人それぞれです。

 

勝ち組だの負け組だの、下ばかりを見て安心している人達も居ますし、ゴーン氏や舛添氏のような 「お金の亡者」 の人も居ますが、そのような人達に対しては、「哀しいな・・・」 とは思いますが、それがその人達の価値観なわけですから、それを否定するつもりも、矯正するつもりも全くありません。

 

***

 

そう言えば、今日は、こんなニュースを読みました。

 

   「山本太郎議員が極右カルト『日本母親連盟』の講演会で主催者をフルボッコにしてしまう」

 

   「山本太郎氏、日本母親連盟を支持者の面前でぶった斬り!」

 

呼ばれた公演の主催者を否定するわけですから、主催者としては、生きた心地がしなかったとは思いますが、言っていることは凄くまとも。

ここでやり玉にあがったのは、「日本母親連盟」 ですが、スピリチュアルだとか、似非科学、ホメオパシーやサイエントロジーといったものについて、信じるのは、個々の人の自由ではあるとしつつも、本人は、そういった組織団体を否定しています。

 

某自民党には、代議士になって、その地位と権力を悪用するの 「魔の三回生」 と呼ばれる政治家もおりますが、山本太郎氏は、俳優あがりとは言え、真っ当な政治家として歩んでいるようです。

2019/03/25

所有しようと思わないこと

何故かは分かりませんが、子供の頃から、「浮気はいけない!」 みたいな不文律がありました。

 

   「他人のモノは、取ってはダメ!」

   「自分がされて嫌なことは、他人にしてはダメ!」 

 

と同じ理屈のようです。(笑)

 

今思えば、これは、”コドモ” という実力社会の中で、トラブルを最小限に抑えるための、ノウハウだったのかも知れませんし、あるいは、リアルな社会に出る前のロールプレイだったのかも知れません。

 

しかし自分の場合、それに反して、「好きな子」 は、学校のクラスの中にも複数人居たりしました。人の良いところが見えると、「好きな人」 でも、それぞれ、見る尺度によって異なるのです。

当時は、身体のラインが、キレイに流れているような、女性が好きでした。

女の子が女性に変わりつつある年代になると、腰からヒップにかけてのラインには、息子は敏感に反応しました。

かと思えば、実にイキイキしていて、目が輝いている子などは、写真をみると全然美人でも何でもないんだけど、すごくキレイに感じた子もいました。

 

相手が変われば、身体の中で反応する場所も異なるし、脳の中で反応する場所も異なるわけです。

 

***

 

現代は、そのときの認識で、そのままオトナになっている人が多いように見受けられます。

 

法律論的に言えば、一夫一婦制の婚姻制度は、貞操義務はあるものの、相手を束縛する権利を与えているわけでも、独占を保障しているわけでもありません。

そもそも、どちらか一方の独占欲を満たすために一夫一婦制があるわけではないのです。

単に、社会を安定にするため。そして、肉体的経済的に弱者となりやすい女性や子供の生活を保障するためなのです。

 

従って、結婚していない状態においては、複数の異性と付き合っても、何も法的には問題となりません。7人の彼氏がいるとして、曜日毎に交代交代して、結果的に 「七股」 を掛けていたとしても、当事者の感情はともかく、法律的には何も問題ないのです。

 

法律では、結婚していようとも、他の異性を好きになることを禁止していませんし、不倫行為も、貞操義務違反であって、禁止はされていません。

あくまでも、バレたときに、離婚や慰謝料の請求対象になる場合があるというだけであって、罰金(正確には反則金)の掛かる、自動車などの安全運転義務違反よりも軽いものなのです。

 

結婚するときは、誰もが勝者。永遠の愛を信じ夢見て結婚しますが、現実は、自分の理想通り、思い通りにはいきません。

結婚は 「恋愛」 のように、頼り頼られる関係ではありません。

民法第752条にもあるように、同居し、互いに協力し扶助する関係にあるのです。

 

結婚しているからと言って、それが永遠ではないのが、現代です。

 

結婚でも、恋愛でも、そして不倫愛でも、大切なこと。長続きするコツは、精神的な意味、良い意味で、お互いが自立しているということです。

それは、不足ばかりを数えるのではなく、相手に対する感謝の気持ちを数えるということ。そして、それが自己肯定感に繋がっていくのです。

 

相手に全てを委ねて良いのは、「ハレの日」 のほんの一瞬。

そのときにこそ、自分の汚いところも、醜いところも、全てをさらけ出して、エゴを超えて一対が一体となり、頭の中がおかしくなってしまうくらいに狂えば良いのです。

 

人は肉体的にも精神的にも、所有できるものではありません。相手を所有出来ないからこそ、相手を留めておくために、相手が楽しくなるように、相手を気持ち良くしようと努力するわけですし、人の命も恋愛関係も、永遠がないからこそ、「今」 を楽しもうとするわけです。

 

「所有欲」 は、其れを持っていることで、自分を誇りに感じ、自分が安心しているだけなのです。

裏返して言えば、其れがないと不安なので、「自己肯定感」 が抜け落ちてしまっている状態にあるということです。

 

過去記事の 「SM と乱暴は違う」 で、俳優の新井浩文の強制性交事件について言及しましたが、その事件に絡めて、精神科医が ”クソ客” の心理を説くこの記事は、なかなか為になります。

 

   「新井浩文被告の「強制性交等罪」は風俗店でも成立する 本番強要をする“クソ客”の心理とは?」

 

***

 

   「このひとは、わたしのモノよ!」

 

ひとは 「モノ」 ではありません。

旦那や彼氏が、奥さんや彼女の所有物でもなければ、奥さんや彼女も、旦那や彼氏の所有物ではないのです。

同じように、子供も親の所有物ではありません。

 

子供だって、自我が目覚めたら、自分とは異なる違う人格なのです。

家には家のルールがあるでしょうし、躾けや叱ることも重要です。

しかし、大きくなるに連れ、自分で出来ることは自分でするようにし、自分で判断すべきことは、自分で判断させる必要があります。

親の存在意義は、ひとりでも、危険を回避し、正しく生きて行けるようにすること。

親が子供を支配して、親の価値観の中で子供を生かすことではありません。

 

自分の腹を痛めた子、自分と血の繋がる子供でさえ、親の思い通りにはいかないわけですから、ましてや、血すら繋がっていない赤の他人が、自分の思い通りにいくはずもありません。

 

違う人格、違う価値観を持つ相手を、自分の思い通りにするということは、相手の人格や価値観を否定し、強要しているということです。

本人に悪意はなく、「相手に良かれと思ってやった・・・」 みたいなことを、言うひともいます。

しかし、そういう人の多くは、人によって人格も価値観も異なるということを理解していなかったり、意識していなかったりします。

家庭内で DV やモラハラを働く人の場合は、家族とは価値観を共有する場であると思い込んでいたり、家族の中では自分の価値観が一番正しいと思い込んでいたり、家族は家長たる夫の言うことを聞いていれば良いと、事細かく指示したりします。

暴力などで、家族を自分の思い通りに、支配しようとするわけです。

 

もしかしたら、家族を支配することで、「自己肯定感」 を感じているひともいるかも知れません。

 

***

 

子供の幼少期に、不必要なまでに自分の価値観を植え付けると、それはその子供が大人になったとき、「インナーマザー」 となって、心の中に葛藤が起きます。

そして、幼少期に抑えられた気持ちは、「インナーチャイルド」 になって心の隅に押し込められます。

 

これは、多かれ少なかれ、誰にでもあるのかも知れません。

 

***

 

SM では、外形上は、肉体的に苛め、貪っているだけ、のように見えるかも知れません。

しかし心理的には、被虐性向者いわゆる M の心の中にあるカサブタを見つけ出しては、自分は ”姫” と呼んでいますが、その中に隠れている 「インナーチャイルド」 を救出していたりするのです。

 

ここで困るのは、「インナーチャイルド」 を解放した途端、自分が変わったように思えて、こちらの言うことも聞かず、「ありがとうございました」 と居なくなってしまう人達。

本当は、「インナーチャイルド」 に対する ”躾け” こそが最も難しいのです。

 

それを知らずに、ただ異性を性的に従属させるために使っている人もいるかも知れませんが、だからこそ、SM の世界では、主の命令は ”絶対” なのです。

 

人の心を所有しようと思っても、いつまでたっても満たされることはありませんし、

隣の芝生以上に青い家は、一生手に入りません。

 

まずは、主の言うことに耳を傾けること。

そして、その命令を忠実にこなすこと。

奴隷が人以下の存在とされているのは、「自分!自分!」 ではなく、まずは、「人の話を聞きなさい!」 という意味でもあるのです。(笑)

 

支離滅裂になってしまいましたが・・・ (^^;

 

 

俺の話を聞け! 5分だけでもいい (笑)

2019/03/25

他人と比べないこと(2)

過去記事 「他人と比べないこと」 の続きです。

 

***

 

では、何故、他人と比べてはいかないのか?

 

小さな子供が、お隣のみっちゃんの家と、自分の家を比べることは、全然構いません。

子供の仕事は、モノの違いを認識して、区別するところから、始まるからです。

 

しかし、得てして多くの 「お母さん」 は、こう言います。

 

   「ウチはウチ、お隣さんはお隣さん・・・」

 

頭では分かっていても、説明できないことは、山のようにあるのです。

 

***

 

自分と他人を比べることで、自分が優越感を感じたり、危機感を感じたり、群れの中での自分の位置を確認できることは、分かります。ルールも何もないような時代から、ヒトはそうやって群れて、外敵から身を守り、生き延びてきました。

他人と自分を比較して、群れの中でも地位を競って、派閥同士で抗争を繰り返してきました。

それは、ある意味 「嫉妬」 と同様、既にヒトの 「遺伝子」 に刻まれている、本能的なものなのかも知れません。

 

しかし、「嫉妬」 を引き起こすものは、ネガティブな気持ちであり、個体としての防衛本能の発露に他なりません。

そして、比較からは、慢心あるいは劣等感といった、負の感情しか生みません。

優れた人の優れた点、良い点を褒め、そしてそれを素直に認めることは、実にポジティブな感情だと思います。

しかし、受け留めきれないと、自分に対する当て付けなんではないかと疑ったり、自分は劣っていると思い込んだりして、拗(す)ねたり、僻(ひが)んだり。

これは、その言葉を受け留める方が、自分とその人を比較しているために、起こります。

 

「比較」 は、知的な活動のひとつです。

「比較」 すること自体は、悪くはないのです。

問題は、その 「比較」 の結果生じる負の感情です。

 

何故問題なのかと言うと、自分と他人を比較し、負の感情ばかりに目を向けてしまうと、自分が幸せになれないばかりか、いつの間にか、その負の感情が、自分の周囲の人を巻き込む可能性があるためです。

 

この記事は、「東洋経済」 にあった記事ですが、読んでみて 「なるほど」 と思ってしまいました。

 

   「他人と『比べる病』が親子にもたらす深刻な影」

 

***

 

旧約聖書の創世記では、人類の祖先は 「アダムとイブ」 から始まります。アダムとイブは、神との約束(契約)を破ったことで、「エデンの園」 を追われ、そして、その二人の子供である 「カインとアベル」 では、神から祝福されるアベルに嫉妬をする兄のカインは弟のアベルを殺してしまう。これが人類初の殺人ということになっています。

 

本来は、主と自分の一対一の関係です。常に、自分が主を意識し、感じていれば良いものを、主の周りにいる人と主の関係を自分と見比べたことによって、嫉妬しまうわけです。

 

むしろ、カインは自分の主を見ずに、弟のアベルの存在ばかりを気にしていたのではないでしょうか?

 

***

 

大事なことは、常に主を身近に感じ、主を見つめることであり、そして、自分が主に、どれだけ愛されているのかを、きちんと理解することだと思います。

他人ばかりが気になる人は、主を見ず、他人ばかりを見ており、そして、他人が主に愛されていることばかりが気になってしまい、自分が主にどれだけ愛されているのかが、わからないのです。

 

   「自分は自分、他人は他人」

 

なのです。

 

しっかりと自分を見つめ、自分が愛されていることが実感出来て、自分に自信が出来た人は、他人のことなど目に入らなくなるはずです。目に入ったとしても、少なくとも、気に障ることはなくなるでしょう。

 

隣の芝生は青いものです。

それは、自分のお隣の家から、自分の家の芝生を見ても、青く見えるのです。

大事なことは、自分の家の庭の青さに気が付くことです。

気持ちひとつ、視点がひとつ、心の持ち方がひとつ変わるだけで、同じ日常の景色でも、色が全然変わって見えます。

 

***

 

   「自分が、主を独占したい!」

 

と思うのではなく、

 

   「幸せになりたい!」

 

と願うことです。

自分も幸せになりたいし、出来れば、他の人にも、幸せになって貰いたい。

 

以前に記事にも書いた 「幸せのお裾分け」 です。

 

***

 

 

2019/03/25

笑いを忘れないこと

今日、久し振りに 「ピグ」 を復活させた子に会いました。

さすがに作り立てだったせいか、何もアクションを持っていなかったのですが、

その子いわく

 

   「大笑いのアクションだけは、早く買いたい!」

 

と言っていました。

 

アバターというのは、自分自身ではないけれども、自分のお気に入りを自分でデザインし、自分が操作し、自分が入力した言葉を発しているせいか、やはり其処に、その空間における 「自分自身」 として認識するのでしょう。

 

大袈裟な大笑いのアクションではありますが、しかし、思いっきり笑っている自分の化身を見ることで、自分本人が笑っている感覚を覚えるのだと思います。

 

***

 

昔、子供のとき、ドリフターズが出ているテレビ番組 「8時だよ、全員集合!」 を見ていて、バカ笑いをしていると、母親にこっぴどく怒られた記憶があります。

 

まあ、当時は、「ハレンチ学園」 にしろ、「8時だよ、全員集合!」 にしろ、巷(ちまた)では、”教育上良ろしくない” テレビ番組の代表格と言われていましたので、まあ、親の気持ちも分からないわけではありませんが・・・

 

しかし、「笑い」 が出るのはリラックスしている証拠なのです。

 

真面目に一生懸命、勉強したり、仕事をすることは大切です。

しかし、一生懸命に集中したら、リラックスすることも重要。

緊張と脱力のメリハリこそが、大切なのです。

 

それは、身体もそうだし、心も同じです。

 

心で突っ張り、身体で突っ張り、其処に幾ら意地と根性を見せても、そこで得るものは、「自分が一生懸命にやってる感」 だけなのです。

 

   「オレは、こんなに仕事をしてるぜ!」

 

まあ、そういうプレゼンテーション能力も世の中、ある程度は必要なのかも知れませんが、本当に大事なのは、きちんと働いたら、きちんと休養もあげること。

ブラック企業に文句を言っておきながら、自分は、自分の心や身体を酷使し続けていては、アナタもブラック企業の管理者に一人に過ぎません。

 

大事なのは、メリハリです。

 

そして、弛緩しているとき、リラックスしているときは、身体のチカラを抜くばかりでなく、心も緩めること。

そこで大事なのが、「笑い」 なのです♪

 

***

 

当然、「笑い」 には、いろいろな笑いがあります。

 

ブラックユーモアによる 「苦笑」 的な笑いもあれば、漫談ではありませんが、ウィットに富んでいる上品な 「笑い」 もありますし、ドタバタで下品な 「笑い」 もあります。

 

「笑い」 はやはり、人の感情としては、「ハレ」 です。

しかし、「芸人」 にとっては、それが日常ですから、「ケ」 なのです。

 

縁日で働く人達もそう。縁日は、訪れる人にとっては 「ハレ」 ですが、神事に携わる人も、舞台に立つ人も、縁日の屋台で働く人にとっても、縁日は 「ケ」 なのです。

 

サービスをする側と、される側。

そこをきちんと区別できないと、おかしくなってしまいます。


音楽で歌声で、踊りで魅了するのも大事なら、語りで人の笑いを誘うこともとても重要なのです。

飲食店も飲み屋も、そうなら、風俗もそう。

テレビも映画も、娯楽たるものはみんなそうです。

 

***

 

自分が何故、対等な 「恋愛」 ではなく、「主従」 を好むか。

それは 「主従」 のメリハリを付ければ、自分は 「責め手」 として、「受け手」 である相手に対し、「快楽」 を与えるという構図が実にはっきりとしているからです。

 

ダウンタウンの松ちゃんが、「SM の S はサービスの 『S』 で、SM の M はマグロの 『M』」 みたいに変なこと言うので、またワケが解らなくなってしまいましたが、S は、「ケ」 なのでサービス対価を求めるのです。

そして本来は、その対価が隷属なのです。

 

   「礼と忠誠を尽くし、心も身体も対価としても捧げる」 

 

代わりに、そのサービスと快楽を享受するのです。

 

***

 

「笑う」 ためには、リラックスしている必要があります。

 

そして、心の余裕が必要なのです。

 

では、笑えないのだとしたら、何がいけないのか?

 

自分が自分にプレッシャーを与え続けている人もいます。

それは、良い意味においては、「早く上手くなりたい」 という向上心からなのかも知れませんし、上にあがるためには、頑張りも必要。

しかし、それで自分の便が排出できなくなっては、元も子もないのです。

 

まあ、どうしても便が出せないようなら、自分がほじくってあげますがwww

 

そういう人には、「笑い」 を取り戻すことを、意識してもらいたいと思います。

そして出来れば、アナタが現場では 「鬼監督」 であったとしても、それ以外のところで、アナタが他の人の 「笑い」 も誘えるようなら、それはそれ以上に素晴らしいことはありません。

 

***

 

「笑い」 や 「微笑み」 は、とても大切な感情です。

しかし、「笑う」 ためには、自分自身がリラックスしている必要があるということ。

 

「どうしても、笑えない」 と言う方は、メッセージを下さい。(笑)

くすぐっても、笑わせてあげますwwww

 

***

 

自分も笑い、家族も笑う・・・

そういう家庭にもっていけると、いいと思います。(笑)

 

【例1】 

 

2019/03/25

愛する者のために、踏ん張るということ

「お母さんは、家の中の太陽。」

だから、お母さんの笑い声や、お母さんの元気は、家族にとって大きな励みになるのです。

 

学校でイジメや多少のツライことがあっても、仕事で失敗したり嫌なことがあっても、今日一日を 「頑張ろう!」 と思うのは、お母さんのチカラです。

 

しかし、そんなお母さんも、実は常に踏ん張っているのです。

それは、お母さんにも、「愛する者」 が居るからです。

 

それは、子供だったり、贔屓にしている芸能人だったり、あるいは、まだ見ぬカレシであったり。

 

「子供の笑顔」 から、頑張りを貰っているお母さんは、子供の笑顔を消さないように、子供に自分の辛さは見せません。

何故なら、「子供の笑顔」 は、お母さんの生き甲斐だから。

 

***

 

誰でも、自分は可愛いものです。

しかし、今の自分にとって、何が大切なのか。

 

自分のエゴが大事なのか、自分の承認欲求が大事なのか。

それとも単に、ぽっかり空いている心の隙間にはまるものならば、何でも良いのか。

 

それを考えてみてください。

 

若い頃、恋愛小説や恋愛漫画を読んでは、「自分は愛する者のためには死ねる・・・」。

そして、目の前で息を引き取る自分が愛した人。そんな定番のシーンに誰しも、涙を流した記憶はあるでしょう。

 

しかし 「現実は・・・」 と言えば、私のエゴは大事!私の承認欲求は満たして!

そして、私を好きなら、アナタは私のために死んで!(苦笑)

ガハハハハ―(笑)

 

それでは、あきまへんww

 

そして恋愛に、「保証」 を求めるのも野暮と言うもの。

 

***

 

自分は、自分の奴隷を愛しています。

しかし自分は、「恋愛」 を享受するつもりは、毛頭ありません。

関係性は、あくまでも 「主従」 が基本です。

なので、主を否定する奴隷は、鞭を打たれるだけ。

褒美が欲しかったら、主を理解して、主のために働くことです。

 

「恋愛」 であれば、自分が相手を愛し、そして、相手が自分を愛せば、それで対等な関係が成立します。今風に言えば、ですが。(^^;

しかし、「主従」 における 「恋愛」 は、主に対する 「忠誠」 と 「尊敬」 もしくは 「畏怖」 がなければ、始まりません。その関係性は、そもそもが 「対等」 ではないのです。

 

***

 

口が悪いひとは、まず、自分の口に気を付け、自分の感情に翻弄されてしまう人は、自分の感情の出し方に気を付ける。

もちろん、感情的になって、すぐ手が出る 「DV男」 も、すぐに悪態をつく 「モラハラ男」 も、そして、すぐにヨダレが出る 「セクハラ男」 も同じです。(笑)

 

感情をすぐに口に出すひとも、実に素直な言葉が出る人は、常に周囲に 「幸せ」 を配りますし、繊細な感情も、プラス方向に働くのなら、それは多くのひとに 「滋養」 を与えます。

 

***

 

とあるひとには、「サイテー!」 と叫ばれましたが (苦笑)

 

まあ、自分は SM やってるくらいなので、「ゲス」 であることは自認しておりますし、ベッキーやゲスの極みの川谷みたいに策略は練らないものの、あんなのはカワイイもの。

 

そういう意味では、とりあえずゴールインした 「ベッキー」 には、祝福を気持ちしかありませんし、「結婚生活」 はいろいろあるかも知れませんが、しかし、それをうまい方向に乗り越えていって貰いたいと思っています。

 

とある 「縁」 があって結び付いた関係の場合、結婚であれ不倫であれ、大事なことは、「麻縄」 と同じように、「縁」 と言うものも 「糸」 の親戚であり、弱ければ縒(よ)って大事にするものであって、「絡んだ」 から、自分の思い通りにならないからと言って、切ってしまってばかりいては、いつまでたっても、弱い糸に過ぎないということ。心の隙間は埋まりません。

 

***

 

すみません・・・・

 

こんな話をする筈ではなかったのですが。

 

最後に、この記事をご紹介します。

 

「殺してほしい」 笑顔で逝った母が遺した30年分の日記

 
***
 
自分の愛する者の死。
 
それにはペットも奴隷も、そして勿論 「主」 もその中に含まれます。
 
愛する者に対しては、尊厳を見せます。
 
ワンコであっても、ワンコは最後の 「生きざま」 を見せているのです。
 
大事なのは、「動物病院」 に連れていくことではなく、
ただ単に、時間を延ばすことではなく、大事なのは密度。
 
最期のときをアナタが選んで、そして、そこにアナタが一緒に寄り添うことです。