価値観を広げるということ
価値観は、人それぞれ異なります。
その人の好みもあるでしょうし、感じ方の違いや考え方の違いもあるでしょう。
それは、その人の自由です。
どうしても、その価値観が受け付けられないのであれば、一緒にいることは困難でしょう。
好きな人や尊敬する人からは、その価値観をも学びます。
だからと言って、自分の好きな人や尊敬する人が、自分と全く同じ価値観を持っているわけではありませんし、その価値観が必ずしも完璧というものでもありません。
受け容れるのも、受け容れないのも、その人の自由。
得てして、器が大きい人 は、そういうものに囚われずに人を見ていて、器の小さな人が、自分の好き嫌いに囚われているに過ぎません。
しかし、人の器も、食器と同じです。大きければ大きいほど良いと言うわけでもありません。
その人その人に与えられたものなわけですから、大きい小さいにこだわる必要はありません。
トマトが嫌いなら、無理に食べろとは言いません。
しかし、喰わず嫌いだったり、昔食べたときの嫌な記憶で 「トマト嫌い」 になっている場合も少なくありません。
しかし、食材の場合は、「何が嫌か」 を明らかにしていって、トマト嫌いな人でも、トマトが食べれるようになる調理法が、あったりするのです。
実際に、何人何十人もの 「レバー嫌い」 の人にレバーを食べさせ、「ネギ嫌い」 の人にネギを食べさせてきた経験があります。(笑)
自分の価値観に閉じこもるのは、頑なに 「自分の好き嫌い」 に振り回されているのと一緒です。
自分は、他人に自分の価値観を押し付けるつもりは、毛頭ありません。
受け容れられるなら、受け容れれば良いのです。
そして、「何かチャレンジしたい!」 と思っている人には、支援の手を差し出します。
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恰好良かろうと恰好悪かろうと、そんなことは自分にとっては価値のあることではありません。
そもそも、五十路を過ぎた 「多頭飼い」 のエロオヤジですから、薄汚くて当たり前。
恰好良く見せて女性を口説いているわけでもありませんし、そんな見栄えで女性を惹いているようでは、その辺のナンパオヤジと同じになってしまいます。(苦笑)
ひとりの女性を受け留めるだけでも、泥だらけになります。
泥で汚れることを気にしていては、女性を受け留めることなんか、出来やしません。
どうしても、服が汚れるのが気になってしまう人は、何処か遠くから眺めていれば良いのです。
その人の価値観を受け容れられないのであれば、近づかなければ良いだけですし、どうしても顔を合わせる必要があるのであれば、其処は見ないようにすれば良いだけです。
学歴のない人とは、話をするのも嫌いな人なら、学歴の高い人とだけお付き合いすれば良いだけの話。
「学歴や収入や職業などで人を判断するのは、損な人だな・・・」
とは思いますし、そういう人とは、自分から仲良くなりたいとは思いませんが、損するにせよ得するにせよ、その人の自由なのです。
自分が誰とお付き合いあいしようと、自分の自由です。
自分は、ちょうど新井浩文とは対極の存在なので、風/俗嬢に対しても全く偏見はありませんし、まあ、昔の話ではありますが、ソ/ープのお姉ちゃんから、忘年会に誘われちゃったりするタイプです。w
しかし、だからと言って、他人に其れを強要しようとは思いませんし、それとはまた異なる価値観があるからと言って、批評はしません。
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生き甲斐や人生の価値といった、「人生観」 も人それぞれです。
勝ち組だの負け組だの、下ばかりを見て安心している人達も居ますし、ゴーン氏や舛添氏のような 「お金の亡者」 の人も居ますが、そのような人達に対しては、「哀しいな・・・」 とは思いますが、それがその人達の価値観なわけですから、それを否定するつもりも、矯正するつもりも全くありません。
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そう言えば、今日は、こんなニュースを読みました。
「山本太郎議員が極右カルト『日本母親連盟』の講演会で主催者をフルボッコにしてしまう」
呼ばれた公演の主催者を否定するわけですから、主催者としては、生きた心地がしなかったとは思いますが、言っていることは凄くまとも。
ここでやり玉にあがったのは、「日本母親連盟」 ですが、スピリチュアルだとか、似非科学、ホメオパシーやサイエントロジーといったものについて、信じるのは、個々の人の自由ではあるとしつつも、本人は、そういった組織団体を否定しています。
某自民党には、代議士になって、その地位と権力を悪用するの 「魔の三回生」 と呼ばれる政治家もおりますが、山本太郎氏は、俳優あがりとは言え、真っ当な政治家として歩んでいるようです。